日本国憲法第九条 戦争のない自由で平和な世界を目指して

憲法第九条は、自衛戦争を含めて一切の戦争を放棄している。教育・医療そして仕事を作り出すことが、結局は戦争のない世界を構築する礎になる。

日本国憲法第九条は、戦力の保持を許さず、自衛戦争も含めて交戦権の行使も認めていない。

憲法九条の解釈論を展開してゆく。法律判断というものは、三段階の手続きを踏むのであって、法律解釈→事実認定→判断、という具合である。ここで展開するのは、米軍・自衛隊の実体論ではなく、それに論理的に先行する法律解釈としての憲法9条論である。これを確立しておかなげれぼ、米軍や自衛隊違憲主張はありえない。なお、めんどうでも憲法九条の条文を参照しながら.本文を読んでいただきたい。

憲法九条の条文
一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

1 九条をめぐる5つの論争点

  九条に関しては、多くの見解が対立しているので、ここに主要な五つの見解をまず概観しておくのが便利である。なお、九条解釈では、以下に挙げる5つの主な論争点がある。

 ①九条一項はどのように解釈するべきか(特に「国際紛争を解決する手段として」の戦争とは自衛戦争を含むか否か)。②九条二項前段の「前項の目的」とは何をさすか。③同条同項前段の「戦力」の意味は何か。④同条同項後段の「交戦権」の意味は何か。⑤集団的自衛権の行使は認められるのか。

  したがって、これからの概観も、これらの論争点に沿って進める。

 

<第1説(集団的自衛権を認める前までの政府の「自衛力論」)>
 
①九条一項においては、わが国が固有の自衛権を持っているのだから、自分の国の生存を守るだけの必要な対応手段は許している。すなわち、その場合は、国際紛争を解決する手段としての武力行使ではなく、自衛権の発動として許される。

  九条二項前段の「前項の目的を達成するため」とは、一項全体の趣旨受けて、侵略戦争を放棄するために、と解釈する。

  ③九条二項前段が保持を禁止する戦力は、自衛のための必要最小限度の実力を越えるものを指し、自衛のための必要最小限度の実力にとどまる限り、その保持は、同項の禁止するところではない、と解すべきである。

  ④上述のように自衛権があるのだから、自衛権の発動としての自衛行動権はあるのであり、九条二項後段の「交戦権」とは、交戦国が戦時国際法上持つ各種の権利、敵国領土の積極的攻撃・中立国船舶の臨検・占領地行政などをする権利がこれに含まれる。

 

<第2説(自衛戦力肯定論)>

  ①九条一項の「国際紛争を解決する手段として」の戦争とは、侵略戦争を指し、自衛権の発動としての戦争は、これに含まれず、したがって、九条一項は、自衛戦争を放棄してはいない。

  ②九条一項の「前項の目的を達成する手段としては」とは、「国際紛争を解決する手段としては」ということを意味するから、九条二項前段が戦力を保持しないとするのも、「国際紛争を解決する手段として」する戦争その他の一定の行為をなすためにする戦力の保持についていうのである。したがってたとえば、自衛のための戦力の保持は禁止されたものではない

  ③九条二項後段で否認される交戦権とは、国際法上、国が交戦国として認められている各種の権利(船舶の臨検・拿捕貨物の没収などの権利や、占領地行政に関する権利など)を総称する。

 

 <第3説(二項全面放棄説・長沼ナイキ基地訴訟第一審判決の立場)>

  ①九条一項では、「国際紛争を解決する手段としては」戦争その他を放棄するとしているので、本条項では、侵略戦争を放棄したのみであり、未だ自衛戦争までは放棄していない。

  ②九条二項前段の「前項の目的」とは、第一項を定めるに至った目的、すなわち「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(する)」という目的をさす。

  ③九条二項前段の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とは、 いっさいの戦力(=外敵に対する実力的な戦闘行動を目的とする人的・物的手段としての組織体)を保持しないとしているもので、軍隊その他の戦力による自衛戦争も、事実上行うことが不可能となるのである。

  ④九条二項後段の「交戦権」とは、国際法上の概念として、交戦国が国家として持つ権利で、敵の兵力を殺傷・破壊したり、都市を攻撃したり、占領地に軍政を敷いたり、中立国に対しても一定条件の下に船舶を臨検・拿捕し、また、その貨物を没収したり等する権利の総称をいう。

 <第4説(一項全面放棄説・私の立場)>

  ①憲法九条一項の「国際紛争を解決する手段として」の戦争とは、自衛戦争を含めて一切の戦争をさすのであり、したがって、同条同項で、自衛戦争も放棄されている。

  ②憲法九条二項前段の「前項の目的」とは、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するために」という意味である。

  ③憲法九条二項前段の戦力不保持の規定は、同条一項が広く戦争を放棄した目的を実効化するために、戦力、すなわち目的及び実体の両面からみて、対外的軍事行動のためにもうけられている人的組織力と物的装備力を保持しない、と定めたものである。

  ④憲法九条二項後段の「交戦権」は、文字通り、国家が戦争を行う権利であり、一項で一切の戦争を放棄するとした趣旨を徹底させるために交戦「権」という法的権利をも否認したのである。

 

 <第5説(集団的自衛権を認める現政府の立場)>

①九条一項においては、わが国が固有の自衛権を持っているのだから、自分の国の生存を守るだけの必要な対応手段は許している。すなわち、その場合は、国際紛争を解決する手段としての武力行使ではなく、自衛権の発動として許される。

②九条一項は、自分の国の生存を守るだけの必要な対応手段は許しているのだから、①我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合存立危機事態において、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、③必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容される。

 

2 五つの見解のいずれが正しいのか

 以上あげた五つの見解の何れが正しいのか、以下に検討してゆきたい。

憲法九条の立法者意志>

 憲法九条の真意を探るために現憲法制定を審議した1946年の第90帝国議会における当時の吉田茂内閣の発言を検討してみる。吉田内閣は、現憲法の提案者である。

 当時の吉田首相は、憲法九条を説明して次のように言っている。

戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しておりませんが、第九条第二項に置いて一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります。従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争亦然りであります。…日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分からないというのが、日本に対する大なる疑惑であり、又誤解であります。先ず此の誤解を正すことが今日我々としてなすべき第一のことであると思うのであります。又この疑惑は…全然根拠のない疑とも言われない節が既往の歴史を考えて見ますると多々あるのであります。故に我が国に於ては如何なる名義をもってしても交戦権は先ず第一進んで放棄する、放棄することによって全世界の平和の確立の基礎をなす、全世界の平和愛好国の先頭に立って、世界の平和確立に貢献する決意を先ずこの憲法において表明したいと思うのであります。」(46・6・26国会答弁)

<吉田首相「国家防衛権を容認することは有害無益」と論ず>

 また、その翌々日の六月二八日、共産党野坂議員の「草案には、戦争一般の放棄とあるが、戦争には侵略戦争という不正の戦争と、防衛的な戦争という正義の戦争があるのではないか」という質問に対し、吉田首相は、次のように答えている。

戦争放棄に関する憲法草案の条項におきまして、国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせられるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争の多くは国家正当防衛健の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが偶々(たまたま)戦争を誘発する所以(ゆえん)であると思うのであります。交戦権放棄に関する草案の条項の期する所は、国際平和団体の樹立にあるのであります。(しか)しながら正当防衛による戦争が()しありとするならば其の前提に於て侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提としなければならぬのであります。故に正当防衛国家の防衛権に依る戦争を認めるということは…()平和団体が樹立された場合におきましては、正当防衛権を認むると云うことそれ自体が有害であると思うのであります。ご意見の如きは有害無益の議論と私は考えてます。」(衆議院本会議46・6・28)

 以上のように、当時の九条の提案者たる吉田内閣は、九条解釈上、自衛のための戦争や自衛のための戦力ないし実力を明白に否定しているばかりでなく、国家防衛権を容認することは有害無益とまで言い切っているのである。

憲法の基本原理と非武装>

 憲法は、前文の第一項ないし第三項において、「憲法憲法」とでもいうべき基本原理を定めている。国民主権主義、基本的人権尊重主義、そして平和主義である。ここでは、これら三つの基本原理が調和して並存するには、非武装が不可欠であることを有事体制に対する考察を通して明らかにする。

⑵ 自衛隊にとって有事体制は不可欠だ

 かりに、日本を防衛するための自衛力(自衛隊がこれに該当する)が容認されるとしよう。自衛戦争は自衛力だけで戦い得るものではない。兵器、弾薬、そして燃料の補給や基地の提供、労務の調達、隊員の補充などについて、国民の協力なしに戦争を続けることは不可能である。また戦争をすれば、被害が国民に及び、国民の戦争批判も活発になるから、言論・出版・集会結社の取り締まりを行ったり、戒厳令を宣告して、反対勢力の鎮圧が不可欠のものとなる。さらに軍事機密も保護しなければならないし、戦争が開始されれば軍事特別会計を組まなければならない。近代戦争は、まさに総力戦でなければあり得ないのである。

 国の総力を動員して自衛戦争を戦うための体制が有事体制であり、その体制を整えるための立法を有事立法というが、以上に述べたように、自衛力による自衛戦争遂行のために、有事体制・有事立法は不可欠なのである。

⑶ 有事体制は憲法の基本原理を壊滅させる

 ところが有事体制は、憲法の基本原理である国民主権の原則や基本的人権尊重を全く崩壊させてしまうものである。このことを、1963年に防衛庁統裁部により作成された「昭和三八年度総合防衛図上研究」(三矢研究)と、一九六六年、防衛庁法制調査室によってまとめられた「法制上今後整備すべき事項について」とを資料として論証したい。(なお、三矢研究は、制服組が行った非常事態研究としては、最高の達成といわれ、今も体内研究では参考資料とされており、その中の「非常事態諸法令の研究」は、法制面における制服組の最大限目標を掲げたものといえる)

 第一に、国民主権主義が崩壊させられる点について。「有事」と認定されると、国家非常事態の宣言がなされ、内閣総理大臣の権限が強化され、国民の基本的人権は大幅に制限される。この強化された首相の権限を国民はより一層の正確な状況把握でコントロールしなければならないのに、それどころか、国家防衛秘密保護法や集会・結社・言論・出版の自由の制限の壁に合い、国民は全く主権者たる権利を行使し得なくなり、首相・軍部にすべてを白紙委任した状態となってしまう。

 例えば、三矢研究の「非常事態措置諸法令の研究」では、自衛隊の行動を容易ならしめる施策として、国家非常事態宣告があげられ、政府機関の臨戦化として、内閣総理大臣の権限強化が説かれ、そして防衛保護として、国防秘密の保護、軍事機密の保護があげられているし、同研究の「状況下の研究第三動」には、通信統制機構や放送・報道統制機構を整備する必要が説かれているのである。

 こうしたことから、行政府・軍部の独裁が進行してゆくことになり、国民主権主義は、有事体制の下に崩壊させられてゆく。

 とくに「有事」が、時々の政府・支配層によって意図的に作り出される危険性をもっていること、「有事」という事態が対外的な侵略行動のために積極的に作り出される危険性があることを、我々は、戦前のわが国が企てた満州事変・アメリカのベトナム戦争・その他多くの事例を通して知らされている。

 だから、有事立法が制定され、有事体制への準備ができた段階で、時の支配層はいつでも都合の良い時に、「有事」を作り出し、独裁体制へ移行することが可能となってくるのである。

 国民主権主義と有事体制は、両立し得ないことを肝に銘ずるべきである。

⑷ 有事体制は基本的人権尊重主義を崩壊させる

 第二に、有事体制は基本的人権尊重主義を崩壊させるという点について。「有事」と認定されると、国家非常事態宣言が出され、以後、国家総動員対策として、人的・物的動員や種々の統制が行われ、憲法で保障する様々な基本的人権は、著しく制限されてしまう。以下にこの点を具体的に考察する。

① 徴兵制とその準備

 三矢研究の「非常事態措置諸法令の研究」によれば、「防衛徴集制度の確立(兵籍名簿の準備・期間の設置)」が挙げられている。しかし、徴兵制は、憲法前文で保障する「平和のうちに生存する権利」を侵害し、同18条で禁止する「その意に反する苦役」に該当し、かつ同22条で保障する職業選択の自由を侵害する。また、徴兵制のための兵籍名簿を準備するために適格者を調査すること(2002年8月5日から稼働している「住民基本台帳ネットワーク」(住基ネット)がこの目的に使われる恐れは充分にある)は、同13条で保障するプライバシーの権利を害するのである。

② 表現の自由の制限

 三矢研究は、防衛保護として、国防秘密の保護、軍事秘密の保護を挙げ、かつ通信統制機構や放送・報道統制機構を整備する必要があると説いている。また、「法制上今後整備すべき事項について」は、「わが国の防衛上の秘密を保護するため、国家防衛秘密の範囲を定め、所要の罰則を定める」とし、さらに通信手段の確保に関し特別立法を予定している。しかしこれらは、憲法21条で保障される国民の「知る権利」や表現する権利を侵害し、軍事的理由による基本的人権の制限を受けないという意味での平和的生存権を侵す。「有事」なるがゆえに権限を強化された行政・軍事権力に対し、国民は、見ざる、聞かざる、言わざるの三重苦を強いられるのである。

③ 労働基準法の改悪

 「法制上今後整備すべき事項について」は、「労働者のため最小限必要な労働基準について、緊急時態勢に応じて、年齢、労働時間、勤務時間等の勤務条件の特例をもうける。」とする。戦時体制に向けて、労働基準を改悪しようとするものである。しかし、これは憲法25条で保障する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を害するし、同27条の労働条件保護規定にも反する。

④ 労働基本権の制限

 三矢研究は、国家総動員対策として「防衛物資生産工場におけるストライキ制限」を挙げている。また「法制上今後整備すべき事項について」も「緊急時における生産確保のために、労働者と使用者との間の集団的関係(争議権等)について特例をもうける。」としている。しかし、これは憲法28条で保障する労働基本権を侵害し、凶暴な資本の前に労働者を丸腰にするものである。

 もとより基本的人権といえども、「公共の福祉」の下に制限を受ける(憲法12・13条)。しかし、それは制限される人権の価値に比べ、制限を必要とする具体的利益の方が価値が大きいということが、国民感覚からみて正当視される場合に限られる。有事体制下では、国家防衛秘密保護の名の下に、比較されるべき具体的利益の内容について、国民は全く判断すべき情報を与えられず、「有事」=国家非常事態=公共の福祉という図式に従って、基本的人権が剥奪されてしまう。シビリアン・コントロールなど不可能なのである。このことは、現在の機密保護法制の下でも(1997年末)、防衛機密が9万4千点、庁秘が何と74万2千点にものぼると発表されている事実からも明白である。

⑸ 憲法は非武装平和を規定している

 前述⑵で論じたように、有事体制は、日本を防衛するための自衛力(=自衛隊)を認める以上不可欠のものである。

 ところが、有事体制を認めることは、憲法国民主権主義、基本的人権尊重主義と矛盾する。ということは、憲法は有事体制を容認しないということであり、従って、有事体制と不可欠の関係にある自衛力の存在も憲法は許していないということである。

 憲法の基本原理である国民主権主義、基本的人権尊重主義と平和主義とが調和的に並存するには、非武装平和主義でなければならないのである。

 

3 まとめ 憲法九条一項全面放棄説が正しい

⑴ これまでに検討してきたことを率直に考えれば、憲法九条一項全面放棄説(前述第4説)が正しい解釈といえる。

 ① 憲法九条第一項の「国際紛争を解決する手段として」の戦争とは、自衛戦争を含め一切の戦争を指すのであり、従って、同項で自衛戦争も放棄されていると解釈すべきである。けだしこう解釈すると、前述してきたように、制憲議会における立法者の意思にも合致し、また我が憲法の3基本原理が調和し、さらに太平洋戦争に突入していった歴史に対する建設的な反省となるからである。

 また憲法九条一項が、自衛のための自衛権の行使や自衛戦争も放棄していると解釈することは、大日本帝国憲法(旧憲法)と現憲法の規定の差異からいっても正しい。

 両者の対比を行ってみると、かって陸海軍を擁した旧憲法は、その第十一条において「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とし、第十二条では「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」とし、さらに第十三条で「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」とし、そして第十四条で「天皇ハ戒厳ヲ宣言ス ②戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と規定している。すなわち、陸海軍の指揮、編成や戦争の開始及び終結に関する手続規定などを定めていた。しかし現憲法は、このような重要な事項に関して明文の規定を欠いている。このことは、現行憲法九条が自衛のためにする自衛力の行使や自衛戦争を放棄した、と考えざるを得ないのである。この点で、第一説・第二説は誤っている。

 ② 憲法九条第二項前段の「前項の目的を達するため」とは、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するために」という意味に解すべきである。

 1946年8月3日、制憲議会衆議院委員会において芦田委員長が、“前項の目的を達するため”の文言の意義を説明して、「法九条に於て第一項の冒頭に『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』と附加し、その第二項に『前項の目的を達するため』なる文字を挿入したのは、戦争抛棄、軍備撤廃を決意するに至った動機が専ら人類の協和、世界平和の念願に出発する趣旨を明らかにせんとしたのであります」と説明しているからである。

 ③ 憲法九条第二項前段の戦力不保持の規定は、同条第一項が広く戦争を放棄した目的を実効化するために、戦力、すなわち目的および実体の両面からみて対外的軍事行動のために設けられている人的組織力と物的装備力を保持しない、と定めたものと解釈すべきである。

 第一説・第二説は、自衛のための実力ないし戦力なら禁じられてはいないという。しかしこう解することは、制憲議会における政府説明に矛盾するし、憲法3基本原理の調和という点からも許されない。また、太平洋戦争に突入していった歴史への反省にも欠けることになる。

 ④ 憲法九条第二項後段の「交戦権」は、文字通り国家が戦争を行う権利であり、一項で一切の戦争を放棄するとした趣旨を徹底させるために交戦「権」という法的権利をも否認したものと解すべきである。

 第一説・第二説は、「交戦権」とは国際法上、国が交戦国として認められている各種の権利(敵国領土の積極的攻撃・中立国船舶の臨検・占領地行政などをする権利)を総称すると解する。だが、自衛のための軍事的措置が許されるのに、何故にそうした「正戦」に際しても国際法上の交戦権を自ら否認しなければならないのか、その理由は説明しがたい。

⑵ なお、憲法九条自衛戦争を含め一切の戦争を放棄していると解するのは「理想主義」ではない。今日の熱核兵器やミサイルや生化学兵器などの発達は旧来の戦争概念を一変し、在来兵器による「自衛」や「国防」をほとんど無意味にしてしまった。核戦争を防止することがあらゆる問題に先行する絶対的課題になっているので、非武装による生存と安全の追求は著しく高い現実的意味を持っているのである。

 結局、憲法九条の正しい解釈は、前述した第四説である。